波の間の静けさ — 波を見つめる者
序 「静けさは、止まることではなく戻ること」で語った“止まる”の感覚。
今回は、その静けさの中から生まれる「観る」という行為について書きます。
何かを変えようとする前に、ただ“観る”ということ。
その中に、治療も、人生も、同じ原理が流れているように思うのです。
止まることで初めて、見えてくるものがある。
けれども、止まったままでは届かないものもある。
静けさの奥で、ふと気づく。
「止まる」と「観る」は似ているようで、まったく違うのだと。
止まることは、自分の中心に還ること。
観ることは、その中心から世界をもう一度見直すこと。
私たちは生きているあいだは少なくとも常に何かを「変えよう」としている。
良くしたいとか、整えたいとか、成功したいとか。
漠然とした動機が、 動き続けることが、成長の証だと思い、立ち止まることを恐れてきた。
けれども臨床の中では、動かすほどに滞る瞬間がある。
「治そう」と思うほど、身体が抵抗する。
「なんとかしたい、」と力を入れるほど、執着が生まれ波が乱れる。
その逆に、ふと意識をゆるめ、ただ“観ている”だけのとき、身体はそれぞれが自らのリズムを取り戻していく。
私はそれを何度も見てきた。
意志ではなく、観察が流れを戻す瞬間を。
現代物理学では「観測者効果」という原理がある。
観測するという行為そのものが、粒子の振る舞いを変える。
つまり、観る者の存在が、世界を変えている。
東洋の古典では「意、気を導く」と言う。
意識の向け方が、気の流れを変える。
ただ観るという行為は、量子の理(ことわり)と東洋医学の根が同じところにある。
観る者の心が静かであれば、場も静かになる。
観る者が乱れれば、波も乱れる。
世界とは、観る者と観られるものの“共鳴場”なのだと思う。
私は、鍼を打つときに、身体を「操作」するというよりは、無言の訴えを「聴く」ようにしている。
皮膚の下で波打つ血流、筋のわずかな震え、呼吸の揺れ。
それらを静かに観察していると、波が整っていくのがわかる。
「整える」とは、整えようとすることではなく、 整う“過程”を観察し見守ること。
そのとき、患者さんの身体と私の意識がひとつの場になる。
観る者と観られるものの境界が消え、ただひとつの波がそこに在る。
人間関係でも、人生でも、同じことが起きる。
相手を変えようとすると、波はぶつかり合う。
けれども、ただ“観る”ことで、相手は自ら変わっていく。
それは支配ではなく、共鳴。
理解ではなく、受容。
観るとは、世界を裁かず、ただ共に在ること。
観ることができる人は
恐れを手放した人だ。
恐れが消えると、判断も消える。
判断が消えると、ものごとは自然のリズムに戻る。
「観る」ことの真意は、“自分をも観ている”ということでもある。
他者や出来事を観察しているときは 同時に、自分の反応も見つめている。
怒りが出る瞬間、悲しみが浮かぶ瞬間、 その波を静かに見つめることで自分の内にある波も少しずつ調っていく。
観察とは、制御ではない。
観察とは、受け容れであり、呼吸だ。
宇宙に存在するすべてのものは、大きなひとつの波(場)の中で揺らいでいると言われる。
私たちはその中の一点であり、同時に全体でもある。
波を変えようとしなくていい。
波を「観る」ことで、もう変わっているのだから。
その“観る者”としての静けさを保つことが、 人生を整える最も根本的な行いではないだろうか。
朝、まだ誰もいない治療院の空間で、カーテンを少し開けて光が差し込む瞬間がある。
微細な埃が、金色の粒のように浮かび上がる。
誰かが動かしたわけでもないのに、光に揺れている。
私はそれを見ながら世界もまたこんなふうに“観られることで輝く”のだと感じる。
観ることが、世界をきっと優しく照らす。
それが、波を見つめる者の仕事なのかもしれない。
止まることが「還る」だったように、観ることは「繋がる」こと。
静けさのあとに訪れる 世界との再会。
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